2014年 05月 24日
愛犬の旅立ちと思い出 2 |
月命日の日の記事を書こうと思ったら、過ぎてしまっていた。反省。
というわけで、24日を過ぎてからこの日記を書いている。
愛犬がまだ生きていて、病気と闘っている時、
ある方から愛犬の肖像画をプレゼントして頂いた。
写真を元に、プロの絵描きさんに書いて頂いたもの。
本当に嬉しかったし、今も机の正面の壁に飾っていて毎日眺めている。
大好きだった水遊びにはしゃぐ姿だ。
これを見ると、元気一杯で楽しかった頃の思い出が蘇る。

私が愛犬と密接に過ごした時期は、家に迎えた生後数ヶ月の時から
6才になる前までの期間だった。
日常的な言葉、コマンドやゲームなんかはどんどん覚えて
意思の疎通は楽勝だった。
しかし、屋外に出た途端に室内と時と同じようなレベルの
コミュニケーションがとれないことが何故なのか、
他の好奇心を刺激する沢山のものよりも、
自分自身の優先順位を上げられる為には、
どこをどうしたら改善するのかを知り、実現したくて、
色々と模索しているうちに、今の道に進んでいた気がする。
愛犬が中年から老犬になってからの日々は両親の方が密接な関係だった。
年に何度も帰省していたので、
関係が劇的に変わるということはなかったのだけれども、
愛犬の中で、私に対しての重要人物認定度合いが、
年を経るごとに薄れているのは良くわかった。
当然ながら、側に居て生活を共にし、毎日欠かさずお散歩に
行ってくれる人が犬にとって最重要人物なのだ。
東京に連れてきて、一緒に暮らした数ヶ月間を除いては、
実家に帰省する時だけ会う関係になったが、
私の中で愛犬と過ごした日々の中で得た感覚や
楽しかった思い出や経験など、様々な記憶が薄れずにあるように
愛犬にとっても、私といた時の感覚やイメージは
薄れずにあるのを感じた。
犬は今を生きる生き物だが、一緒に時間を過ごす中で
培って来た感覚や癖というのは、色褪せる事なくずっと
あり続けるのだなあと思った。
再会するまではその感覚は薄れてぼんやりしているのだけれど
良くも悪くも多大に影響しあって、出来上がったものを
会った瞬間に「ああ、そうだった。」とはっきりと思い出す。
お互いの頭の中にも体の感覚としても刷り込まれて
覚えている事を再会する度に、にやっとしながら感じたものだ。
これが「自分の犬」という感覚なんだなあと思いながら。
というわけで、24日を過ぎてからこの日記を書いている。
愛犬がまだ生きていて、病気と闘っている時、
ある方から愛犬の肖像画をプレゼントして頂いた。
写真を元に、プロの絵描きさんに書いて頂いたもの。
本当に嬉しかったし、今も机の正面の壁に飾っていて毎日眺めている。
大好きだった水遊びにはしゃぐ姿だ。
これを見ると、元気一杯で楽しかった頃の思い出が蘇る。

私が愛犬と密接に過ごした時期は、家に迎えた生後数ヶ月の時から
6才になる前までの期間だった。
日常的な言葉、コマンドやゲームなんかはどんどん覚えて
意思の疎通は楽勝だった。
しかし、屋外に出た途端に室内と時と同じようなレベルの
コミュニケーションがとれないことが何故なのか、
他の好奇心を刺激する沢山のものよりも、
自分自身の優先順位を上げられる為には、
どこをどうしたら改善するのかを知り、実現したくて、
色々と模索しているうちに、今の道に進んでいた気がする。
愛犬が中年から老犬になってからの日々は両親の方が密接な関係だった。
年に何度も帰省していたので、
関係が劇的に変わるということはなかったのだけれども、
愛犬の中で、私に対しての重要人物認定度合いが、
年を経るごとに薄れているのは良くわかった。
当然ながら、側に居て生活を共にし、毎日欠かさずお散歩に
行ってくれる人が犬にとって最重要人物なのだ。
東京に連れてきて、一緒に暮らした数ヶ月間を除いては、
実家に帰省する時だけ会う関係になったが、
私の中で愛犬と過ごした日々の中で得た感覚や
楽しかった思い出や経験など、様々な記憶が薄れずにあるように
愛犬にとっても、私といた時の感覚やイメージは
薄れずにあるのを感じた。
犬は今を生きる生き物だが、一緒に時間を過ごす中で
培って来た感覚や癖というのは、色褪せる事なくずっと
あり続けるのだなあと思った。
再会するまではその感覚は薄れてぼんやりしているのだけれど
良くも悪くも多大に影響しあって、出来上がったものを
会った瞬間に「ああ、そうだった。」とはっきりと思い出す。
お互いの頭の中にも体の感覚としても刷り込まれて
覚えている事を再会する度に、にやっとしながら感じたものだ。
これが「自分の犬」という感覚なんだなあと思いながら。
by scentline
| 2014-05-24 00:00
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